top of page

Interview

TSUNAGARing

​京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科 高橋基樹教授 「同じ地球社会の人間として共にできることは何か」

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram

高橋基樹教授は、京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科の教授としてご活躍されています。過去にJASID-JASNIDSが主催する、学生国際協力団体と国際協力に詳しいゲストの方を繋ぐTSUNAGARingに3度、学生論文大会JJ政策フォーラムに2度参加していただきました。今回は高橋教授の学生時代やお仕事についてや、コロナ禍そして今後の国際協力についてお考えをいただきました。

高橋先生ソロ.jpg

高橋先生が大学生の頃の思い出や国際協力に興味を持ち始めたきっかけみたいなものがあれば教えていただけますでしょうか?高橋先生が大学生の頃の思い出や国際協力に興味を持ち始めたきっかけみたいなものがあれば教えていただけますでしょうか?

アフリカと国際協力に興味を持ち始めたのは、実は大学生の時じゃなく、小学生の頃なんです。今の若い人は、ほとんど知らないと思うのですが、シュバイツァーというドイツ生まれの人がいて、キリスト教の名高い神学者で、かつお医者さんでもあった。アフリカでキリスト教を広めながら、医療活動をしていたのです。その当時フランスの植民地であったガボン、今はもう独立したのですが、そのガボンにいて長いこと活躍していたシュバイツァーが、1960年代の半ば、私が6歳の時に亡くなったのです。母親が教育熱心だったこともあり、シュバイツァーのことを教えてもらっいたんですよ。私の母は今91歳で元気に生きてますけど、その年代より上の人はシュバイツァーのことを非常に尊敬していますね、日本でも。インドの独立の父と言われるガンジーと同じくらいね。

 私が大学生になった頃はもっと違っていました。シュバイツァーがいだいていた、ヨーロッパの文化の方がアフリカよりも優れているだという考え方が批判され始めた、そういう時代なので。小学生の頃はそんなことわかるわけないので、母親とかの影響を受けて、こんな偉い人がいるんだと感じていたのです。アフリカで黄熱病の研究をして、自らがかかってしまって亡くなってしまった野口英世なんかも、いまでこそ、千円札になって偉人として讃えられているけれども、実はいろいろなネガティブな批評とかもあるのです。当時は小学生ですから、そんなことわからないので、野口の伝記なんかを読んで、そういう人生って面白いなと思った。

中学の受験とかしたから、世界のことも知ったりして。僕が中学生の時代にはアフリカにまだ植民地があって、抑圧されているとかっていうのも知るようになりました。南アフリカには人種差別体制があって、人種で様々なことが区切られていて、アフリカ人、有色人種と言われる人たちはすごく虐げられていたのです。そういうことにはかなり早くから関心がありました。だそういう背景もあって、大学生の頃にはアフリカに行って植民地や人種差別をなくすことに貢献する道に行こうか、日本の中で社会の不正を正すような仕事をしようか悩んでいたんです。けれども、大学では英語の勉強をほとんどしなかったので、その当時は、国際協力の道に行くっていう方向へ自信が持てなかったんですよね。

 

 会社員に24歳のときになったのですが、その頃にエチオピアを中心に大飢饉が起こって、非常に残酷な戦争があったし、そういうのをやはりなくさなきゃいけないなって、会社員をしながらも思っていました。南アフリカの人種差別体制であるアパルトヘイトもまだがっちりと残っていて、1980年代の半ばになってようやくこの体制をなくす雰囲気っていうのが世界でも、日本でも共有されるようになってきたのです。

そして、海外とやり取りをする会社に入ったものですから、だんだん自信が持てるようになったのです。英語で仕事をすることを無理やりやらされて、英語は下手だったけどなんとか業務をしていたので、国際的な仕事をやれるかもしれないと思ったのです。アフリカが大変な問題を抱えながら、アパルトヘイトのような人種差別体制を崩していこうというような意識も少しずつはっきりしてきて、これは立ちあがりたいと思った。そして、妻の了解を得て会社を辞めて留学をしたわけです。

 子どもの頃から持ってる夢、たくさんあるじゃないですか。実現できないことも多くあるでしょう。その中で、自分が高められるものとか、周囲の人との折り合いとか、親からの意見みたいなものを踏まえて、絞られていくんですよね。私の場合は、30歳ぐらいに国際協力の実務と研究をするっていう方向でピタッと決まって、そのために留学もしました。それまでは模索ですよね。

 皆さんは20代前半の頃に就職する際に人生を決めなきゃいけないって焦りを感じるかもしれないですが、そういうふうに思わなくてもいいのじゃないかと思いますね。また会社は、契約ですから、一か所に勤め続ける以外に、いろいろな自由があるわけですし。力をつけたら選択肢も広がるっていうこともあるし。自分がこうしたいと思う中で、できるものとできないものがありますよね。力や経験をつけてからしか選べない部分もあると思うから。国際協力ってちょっとね、外国の人と話し合わなければならないから、語学力は必要になるし、少しそこは頑張ってもらわないといけないですね。

日頃の生活の中で、大切にされている言葉であったり、座右の銘があれば教えていただけますか?

 大事にしているけど、全然守れていない言葉があるのです。すごく難しい言葉で、「脚下照顧」。人のことをごちゃごちゃ言う前に、自分のことをよく見て、自分の足元を照らしてよく考えろと、言う言葉です。全く守れてないですが(笑)。それからそういう気持ちに全然なれないんですが、「懐洋」という言葉で、大海原を自分の懐(ふところ)に入れるように受け容れる気持で生きていきたいと思っているんです。相手の状況や立場にもよく配慮して、全くできてはいないのですが。身近な人びとがこちらの思いを聞いてくれない、わかってくれないとイライラしますしね。だめですね。

ただ、一方で人間は、執着することも大事ですね。「一念岩をも通す」も大切な言葉かな。

 

民間企業で5年間働かれていた後、大学院教授という道に移られた理由は何ですか?

 会社を辞めた時は、国際機関とかに入ろうと本当に考えていたのですが、実際にそういう話もあって、国連のある機関に二年間の見習いとして派遣されるという話も決まっていました。しかし、家族で不幸があったり、子どもが小さかったこともあって、その道を選ばなかったのです。国際機関での仕事について考えることもいろいろとありました。

 そこで、日本の開発シンクタンクと呼ばれている組織に入りました。シンクタンクでは留学で勉強したことを活かして、特に政府開発援助に関わることをできたことは非常によかったと思っています。ただ一応シンクタンクなので、ものを考える中で、もっと深く勉強したい、本を読みたいという気持ちも湧いてきました。日本の中で大学の先生っていうのは、社会的影響力はあまりないのかもしれないけど、話は聞いてもらえるのです。ネガティブな言い方をすると、省庁のお役人とかの実務者の人が利用しやすいというところもありますね。それを逆に利用して政府開発援助などを通じてアフリカにいだいている自分の思いを実現したいとも考えました。たまたまアフリカの経済を教える人がいないという話が、尊敬する人を通じて神戸大学からありましたので、手を挙げて移ったというようなことです。

 

神戸大学から京都大学に移られたっていうのにはまた何か理由があったりしたんですか?

 そうですね。神戸大学は、もう20数年働いて、組織の中心人物の役割も担わしてもらえましたから、やることやったかなというような感じがしていたのと、もっと若い先生が中心でやった方がいいかなという風に思ったのです。

 神戸大学では、「国際協力をどのようにするか」という観点でずっと教える立場をとってきたのですが、実際にアフリカで生活している人たちにフォーカスして彼らがどのように生きて、どのように生活しているのかということを知りたいなと思ったんですね。自分も実際に開発の現場や村やいわゆるスラムに行ったりもしていたのですが、大部分はずっと人が取ったデータ、いわゆる二次データを通じていろいろなことを見ていました。しかし、、理論や二次データも大切にしつつも、もっと自分で現地のことをじっくり見て、考えてみたいし、そういう教育をしてみたいという風に思ったんですね。

実際にこれまでアフリカの国々を訪れた中で、そこの人々を豊かにしたり、影響を与えたというようなエピソードがもしあれば教えてください。

 いや、それは簡単じゃないなぁ。そういうのを堂々と主張して、偉そうに威張る人がいれば、実際にやっていたとしても、良くは思わないですね。まぁ、僕は文科系なので、実際にこんなものを発明して、アフリカの人の役に立ったというようなことは言えないですし。実際のことに役に立ったかどうかっていうのは、よくわかりません。

いろいろなアフリカの人にお金を貸したり、寄付したり、留学生のアフリカ人の教え子を育てたりというような意味では、私も直接アフリカ社会に影響を与えているのかもしれない。それと、私だけでなく、多くの大学の先生がしておられることですが、誇りに思っているのは、アフリカで働く、あるいは国際協力に携わる日本人などの大学院生を何人か教えてきたことかな。

 ただ、それだけでは話として面白くないですね。一つ紹介すると、援助の改革に関わったということは、実社会に対してできたことかな、と思います。20世紀の初めに日本の政府開発援助のあり方というのを、変えなきゃいけない、特にアフリカにおいては、それまでの援助の仕組みを改革していかなきゃいけないという時期があったのです。具体的に言うと、皆さんが小学生くらいかもっと小さなころかな、2000年から2010年までの時期に、イギリスやスウェーデンなどの他の援助国や世界銀行などの援助機関が、アフリカを主な舞台にして、援助の全体の質を上げていこうという改革に力を入れていました。そういう努力を日本も一緒にやらなくてはいけない。だから日の丸を前面に出して、日本が単独でするプロジェクトだけではなくて、もっとみんなで力を合わせてやりましょうという機運が強くなりました。

 その時に外務省やJICAの方々といろいろ話をして、一緒に勉強をしながらアイデアを出したんですけど、たぶんこうしたことについては、日本の研究者の中ではかなり発言したひとりかなって思っています。いろいろな援助国、援助機関がバラバラじゃなくて力を合わせてアフリカの人のためにやった方がいいじゃないですか。それだけ言ったらその通りだって思うでしょ。しかし、日の丸だとか日本を押し出さずに政府開発援助をすると、日本自体の外交的利益はどうなるのだということも考えると、なかなか答えは難しいですよね。それはJICAの人たちといろいろ悩みましたね。

 

留学生で実際に向こうに訪れて出会った方を連れてこられたことがあるんですか?

 そういうことはないかな。インターネット上で私を探し出して、留学したいといってくるケースが最も多いですかね。それは実はそんなにすごいことではないんです。私のことをよく理解していないのかもしれないし。

 

 

高橋先生にとって国際協力とはどのような存在ですか?

 そうですね、今私61だけど、人生の大半においてとても大事なものだったかな。それをどんどん推し進めなければならないと思っていたし、それを今でも思っているけれど、ただ、今はもう少し複雑なことを考えているつもりに自分ではなっていて、やはりアフリカの人たちの主体性というかね、彼ら自身が自分の生活をよくしようとか、生活がよくならないとしても守らないといけないものがあるとか、そんなことも考えなければならないと、京都大学に来てから改めて思うようになりました。国際協力とアフリカの人々自らのイニシアチブとをどういう風に組み合わせていくかを考えています。同じ地球社会の人間として、いろいろ一緒にできることは何かっていうことを考えるべきだと思うのです。

 同時に、新型コロナ感染が世界とアフリカに広がる時代になって、みんながみんな身近なことにしか興味がなくなってきた時代には、かえって国際協力はもう一度大事になると思うのです。将来ワクチンが開発されて、豊かな国が感染拡大を防げるようになっても、アフリカで防げなかったらまたコロナが変異して新しい型になって出てくるかもしれないですよね。世界っていうのはそういう意味では運命を共にしているのです。今はかなり自国の利益重視になっている国際協力をもう一度作り直さなきゃいけないと思います。ただ、そんなことほとんどの皆さんは考える余裕がないので、世の中から離れてそういうことを考えている大学の先生1人くらいいてもいいかなって思っています。

 

今お話しされたことと少し重なるんですが、今後の国際協力の形っていうのはどのように変化していくべきだと思いますか?

 数年間は多分、まず第一に日本で困っている人がたくさんいたり、これから日本の経済と社会が大変になるかもしれないのになんで予算をアフリカに使うんだ、という意見が強くなるでしょう。国際協力の立場から言うとなかなか辛い時期が続くと思うのですが、長い目で見ると地球はつながっているので、先ほど話したように国境を越えて協力しあったほうが絶対に人類にとってはいいわけですよね。繋がりあって、交流しあって、支えあって、しかもビジネスをお互いにした方がいいわけですよね。そうしていくためには、自分の国や社会だけでコロナに対応できないような国や地域はほっておいてはいけないわけですよ。

 逆に、将来我々も今支援の対象にしている国々から助けてもらわないといけないこともあるかもしれません。もう一回国際協力は復活すると思うし、させないといけないと思うんですよね。それと、もう一つはもっとちっちゃな話で言うと、国際協力はもっとオンライン化するでしょうね。オンラインで国際協力をするっていうのがどんどん増えていくと思いますね。

 

オンラインで国際協力というとどのようなことが挙げられますか?

 例えば、大学の教育って日本に来ないとできなかったことってありますよね。アメリカの大学は以前からたくさんネット上の授業を世界中に供給してきました。これらオンライン教育は今年度からは日本の大学でも当たり前のことになってきた。オンライン教育はもっと増えていくでしょう。私はあまりオンラインのことを詳しくないから、どんなことができるのかよくわからないけれど、もっとお金の送金とか容易になるでしょう。より多くの話し合い、会議、交流も深めて広げてゆくことができるように思います。そうすれば、もっともっと双方向で我々もアフリカから学んだり助けてもらったりすることができるかもしれないし、お互いを理解することができるかもしれません。よね。

先日何人かの理科系の科学者と話す機会に恵まれました。そこで出た話ですが、現在のオンラインで伝えられるものは、見るものと、聞くものですね。しかし、人間の五感には別のものがある。におい、触感、味は、今のところオンラインでは伝えられません。そういうのも技術が開発されると、共有できるようになるのかもしれない、そんな夢のようなことを専門家が結構大真面目に話していました。しかしその夢が実現すると、社会のつながりも全然違ってきますよね。

 ただ、こうしたことは、アフリカの所得水準の低い国にもオンライン・システムがちゃんと整備されていればの話ですけど。ない場合が多いから、まずそこから始めないといけないのでしょう。しかし、アフリカで携帯やスマートフォーンは予想を上回る速さで普及してきました。ですから、これからオンラインを通じた国際協力・国際交流、その土台をつくるための協力もどんどん進んでいくし、進めていかなければならないように思います。

 

最後に、国際協力を目的に活動を行っている学生団体にアドバイスやメッセージをお願いします。

 みなさんの活動は、少数派というか他の学生さんがあまりしていないことだと思うんです。それで、なかなか理解されなかったり、うまくいかないことも多いんじゃないかな。でも私は、みんながやってることをやるのではなくて希少価値のあることをするっていうのは非常に大切なことだと思います。ですから、これからも熱意をもって取り組んでいってほしいですね。

 あとは、敢えて後ろを振り返らないということですかね。振り返れば、後悔してしまうこともたくさんあると思うので、前を向いて、自分を信じて進んでいってほしいなと思います。開発途上国の人びとに心を寄せて国際協力を行うことは、とても素晴らしいことなのですから。それはたとえコロナの時代になっても、いやコロナの時代だからこそ、求められることのように思います。

 

高橋先生Zoom.jpg

高橋教授の「世界は運命を共にしている」というお言葉は印象深く、この言葉こそ今後の国際協力を考えるうえで重要だと感じました。

また、私たちJASID-JASNIDSをはじめ、国際協力団体で活動をされる方々にとって「希少価値のある行動」というメッセージは非常に深く響き、今後の活動の励みになるのではないかと思います。

取材・文

​松村知周 橘知里

bottom of page