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【2月 日本語論文】学校における貧困の 表れとその不可視化

盛満 弥生(2011)教育社会学研究第88集


<要約>

本稿では、エスノグラフィーという手法を用いて学校生活の中で貧困層の子どもに特徴的に表れる課題を明らかにし、それらの課題が学校や教師から貧困層の問題として捉えられにくい背景にある学校文化のあり様について検討している。対象となった生活保護世帯出身生徒の約半数が脱落型の不登校を経験し、不登校経験や学習資源の不足等が直接的に影響して低学力に陥っており、将来の夢や進路に対する天井感が見られた。このような目立った課題がある彼らであっても、生徒を家庭背景や成育歴によって特別扱いしない日本の学校文化の中では、学校や教師から貧困層の子どもたちとして、特別に処遇されることはない。しかし、彼らの不利が他の一般生徒との違いとなって学校で表れた場合には、学校や教師から特別な配慮や支援がなされることになる。ただ、この場合の支援のあり方は、貧困による不利を解消しようとする積極的な働きかけではない。むしろ、集団の中で顕在化してしまっている不利を隠そうとする消極的なものである。本来であれば、子どもの状況を一番把握しやすく、貧困層の子どもが常に一定数存在し続けていたはずの学校現場で、貧困の問題がこれまでほとんど立ち現れてこなかった背景には、こうした特別扱いしない学校文化と、差異 を見えなくするための特別扱いの影響があると考えられる。


<感想>

子どもの貧困問題は、ここ数年で取り挙げられることが多くなった日本の課題であると考える。近年のテレビ番組では、貧困状態にある子どもたちに密着したドキュメンタリー番組を見かけることが多々ある。他には、貧困状態にあるシングルマザーに密着した番組など日本の貧困問題は年々深刻化している印象がある。学校の「特別扱いしない」という姿勢は悪いとは思ない、むしろそれで良いと思う。だが、たいていの学校は0か100のどちらかでしか物事を考えることのできない非常に柔軟性のない場である。そのため、学校の「特別扱いしない」という姿勢が、貧困状態にある子どもたちの存在を覆い隠していると考える。学校文化には良い面もあれば、もちろん悪い面や時代にそぐわない面もある。差異を見えにくくする、これは聞こえはいいが、その差異は見えにくくしてもよいものなのか、これを考えるべきだ。差異を全て見えにくくすることが、必ずしも良いことだとは限らない。そのため、学校には臨機応変に対応することが求められるだろう。


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