『ボランティアという病』
丸山千夏(2016)、宝島社
【要約】
熊本の大地震でボランティアが話題になった。テレビではボランティアを持ち上げているが、一方、現場では疑問に思っている人も多く存在する。必要もないのに物資を勝手に送ってくる、準備もなく震災地に入ってくる、さらにそれを押し付けの善意と思わず、必要ないと断ると逆切れする人々。さらにボランティアでネットワークビジネスの人脈作りをする人、復興支援の補助金にたかる人々、さらにはボランティア依存症の人々まで。
東日本大震災から今回の熊本大地震にかけて、つぶさに取材してきたジャーナリストが日本の『ボランティアの病』を明らかにする。
【感想】
以前、先生と少し話をした。その時に仰っていて、記憶に残っているのは、「ボランティアに参加する学生は年々増加しているが、そのやる気の根源が少し変わってきている。」ということであった。「なぜボランティアをやるのか」という質問に対して、就活に役立つから、部活もやっていないので学生生活で何かをやっておこうと思った、という「自分ベース」な回答が最近は多く返ってくることが多いそうだ。確かに、就活のサイトに登録したり、ESを出したりするときに、「ボランティア団体に所属していたか」という質問項目は毎回あった。をやる生徒はまじめで自発的、かつ他人を気に掛ける性質を持っているから、企業側としてもそういう学生を取りたいのは分かるし、採用されるためにボランティアを行うのも、まあ理に適った戦略ではあるのだろう。でもその話を聞いた時に、もやっとした思いがぬぐえなかった。それは、自分がこのゼミに所属したからこそだと思う。私たちのゼミは、ボランティアで成り立っていることも多い。普通なら商売として成り立つようなことを、無償でやっている。あくまで「他者」のため自発的に、無償であるからこそできることも、無償だからこそ難しいことも、また有償でできることとその難しさ、どれも体感し、自分の体験として理解したからこそ、「自分のため」が最優先されたボランティアに疑念を抱いてしまう。
また、父が東日本大震災のために、福島に支店の応援に行ったときに、支援物資が大量に届いて、有難いけど、申し訳ないことに困った、という話を長期出張から帰って来た時に聞いた。今考えてみれば、それもボランティアという病の症状のひとつだったのだろう。何かできることはなんだろう、食料に困ってるに違いない!じゃあ、食料を送ろう。良いことをした!というある種の独りよがりというか、そういう側面も孕んでいて、そういう「善意の押しつけ」になっている人、そしてそれに気づいていない人も多いのではないか。少しうがった見方かもれないけど。
開発経済学の、援助の罠も同じ問題がある。私たちの研究は、常にその人に寄り添えているか?その人が本当に要求していることをくみ取れているか?を考え続けなければいけない。だからこそ、哲学も、文化人類学も生きてくるのだと思う。
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